最初は何故この様なことが起きているのか理解できなかった。







押し倒された衝撃で腕が痛い。でもそれ以上の、越えてはいけない境界が差し迫っていることを本能が理解して、必死で逃げようとする。
「光秀、なんで逃げるんだ。」
いつもは低い声もうわずって聞こえる。そして懇願の色を含むその声は光秀の四肢の動きを妨げる様で。
「や、めて…くださっ…」
己の声とは思いたくないそれも、今は気にならない。

着物の間から入った手が身体を這う。吐き気がする。
その一方で初めて触られる人の体温に身体は熱くなり始めた。中心が堅くなってきている。息が乱れる。


―――――――……









それはよく晴れた日だった。 「初めてお目にかかります。足利義昭が遣い、明智十兵衛光秀と申します。」
光秀は壇上の男に言った。
「待っておったわ、明智光秀」
その男の声は低く一直線で光秀に届く。そして鳥肌。男は段を降りて光秀に向かってくる。
「某が織田信長である。」
そう名乗ると信長は光秀の前に立ち、鋭い眼光を彼に落とす。目を合せれば毒に刺されたように動きを征される。そんな信長の眼光が緩むと光秀は肩を下ろしほっとする。 足利義昭の使いとして来た光秀は、今まで生きてきたなかで今日が一番緊張を感じていた。
なんと言っても、破竹の勢いの織田信長である。
群雄割拠の戦国の世で、今一番力を伸ばしているのがこの男であったし、しかも破天荒な性格と聞いている。
機嫌を損ねないようにするのにも、一苦労だ。
屈強なこの目の前から早々に立ち去りたかった光秀は本題に切り出す。
「待っていた…ということは、上洛の件は…」
「当然である」
その言葉の裏に、下心があるのはわかっていたが、自分の目の前にある大役は、案外すんなりと一つ目の関を越えそうで安堵する。
「ところで」
信長は巻き物を広げて言う。それは光秀には当然見覚えの無いものだった。信長は続けて言う。
「お主について調べさせてもらった」
光秀は驚きで声がでない。
(義昭様ならまだわかるが…私が)
「どこまで…」
その声は弱々しく震えていた。
「言って良いのか?」
その言葉で悟った光秀はどこまでも恐ろしくなった。当然といえば当然であるがまさかそこまで深く調べられるとは思ってもいなかった。しかし信長は飄々と続ける。
「恐れることはない。軽口を叩くつもりもない…ただ」
その沈黙は一瞬、なのに深遠に感じた。
そしてその先は言を発することなく信長の手が伸びる。節々が浮き出て骨っぽい。その手が、光秀の顔に伸びる。その手はまるで信長を表すように熱く、触れられたところが火傷でもしたようにじんとする。
(嗚呼、私はこのりんねからは………)










――――――――――………



「ちちうえ…」
もはやどちらに縋るのか解らない、艶のある声。求める相手を間違っている。こんなことは起きてはいけない。わかっている。だが目の前にいるこの男は理解しているのだろうか。
「や…めて、くださぁっ…ちちうえぇっ…!」
目に涙を溜めて言っても説得力などないことをこの時はまだ知らなかった。